教師教育 他者をみる〈チカラ〉―その重要性について―

2018-02-04 14:19:27

 

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教師教育 他者をみる〈チカラ〉―その重要性について―

私(たち)は,あなたのことを誰よりも精一杯愛している。

 

 

みなさん,こんにちは。
教員養成私塾「鍛地頭-たんじとう-」です!!

 

 

昨日の「創業塾」にかかわる話題をもう一つ。

 

この「創業塾」には,
様々な職種の方が講師として招かれています。
私自身,たくさんの職種を経験していますが,
世界には知らないことが,まだまだたくさんあるのだな
(当たり前か!)
と感心しています。

 

そんな中,
ふと「私が経験したことを,
何か1つでも他者に語ることができるのだろうか…?」
と思ったのです。

 

私の職歴の中で,
長く勤めていたものが2つあり,
「販売職(主に子ども服)」と「介護職」です。

 

実は,教育関係の経験は全くなく,
当塾の構想を始めてから,
現在も教育に関する勉強をしているところなのです。

 

その教育の世界でも
通用するのではないかと思い出したのが,
「パット・ムーア」の著書の最後に書かれている
「目を開けて,私をもっとよく見て」
という老人のメモです。

 

看護・介護の世界では
当たり前に知られているお話だと思います。
一時期,ネットでも散見されていたので,
ご存知の方も多いのではないでしょうか?

 

 

教師教育 他者をみる〈チカラ〉―その重要性について―

【誰が,何人見えますか?】

 

 

この「目を開けて,私をもっとよく見て」は
介護現場を舞台に,
高齢者の気持ちが表現されていますが,
学校現場での
「児童・生徒の気持ち」に置き換えることができる

のでは……と。

 

当塾の基本理念である
(当塾の定義はまたまた後日に(笑)」に通じるものがある
と思うので,次に引用しておきます。

 

ぜひ,一読してみてください。

 

何が見えるの,看護婦(ママ)さん,あなたには何が見えるの
あなたが私を見る時,こう思っているのでしょう
気むずかしいおばあさん,利口じゃないし,日常生活もおぼつかなく
目をうつろにさまよわせて
食べ物はぽろぽろこぼし,返事もしない
あなたが大声で「お願いだからやってみて」といっても
あなたのしていることに気付かないようで
いつもいつも靴下や靴をなくしてばかりいる
おもしろいのかおもしろくないのか
あなたの言いなりになっている
長い一日を埋めるためにお風呂を使ったり食事をしたり
これがあなたが考えていること,あなたが見ているものではありませんか
でも目を開けてごらんなさい,看護婦(ママ)さん,あなたは私を見てはいないのですよ
私が誰なのか教えてあげましょう,ここにじっと座っているこの私が
あなたの命ずるままに起き上がるこの私が,
あなたの意志で食べているこの私が,誰なのか

 

わたしは十歳の子供でした。父がいて,母がいて
きょうだいがいて,皆お互いに愛し合っていました
十六歳の少女は足に翼をつけて
もうすぐ恋人に会えることを夢見ていました
二十歳でもう花嫁,守ると約束した誓いを胸にきざんで
私の心は躍っていました
二十五歳で私は子供を生みました
その子たちには安全で幸福な家庭が必要でした
三十歳,子供はみるみる大きくなる
永遠に続くはずのきずなで母子はお互いに結ばれて
四十歳,息子たちは成長し,行ってしまった
でも夫はそばにいて,私が悲しまないように見守ってくれました

 

五十歳,もう一度赤ん坊が膝の上で遊びました
愛する夫と私は再び子供に会ったのです
暗い日々が訪れました
夫が死んだのです
先のことを考え――不安で震えました
息子たちは皆自分の子供を育てている最中でしたから
それで私は,過ごしてきた年月と愛のことを考えました

 

いま私はおばあさんになりました
自然の女神は残酷です
老人をまるでばか(ママ)のように見せるのは,自然の女神の悪い冗談
体はぼろぼろ,優雅さも気力も失せ,
かって心があったところには今では石ころがあるだけ
でもこの古ぼけた肉体の残骸にはまだ少女が住んでいて
何度も何度も私の使い古しの心は膨らむ
喜びを思い出し,苦しみを思い出す
そして人生をもう一度愛して生き直す
年月はあまりに短すぎ,あまりに遠く過ぎてしまったと私は思うの
そして何ものも永遠ではないという厳しい現実を受け入れるのです

 

だから目を開けてよ,看護婦(ママ)さん――目を開けてみてください
気むずかしいおばあさんではなくて,「私」をもっとよくみて!

 

[引用]『私は三年間老人だった 明日の自分のためにできること』(パット・ムーア (著), 木村 治美
     (翻訳),朝日出版社,2005.3.28)

 

 

私の脳裏には,
このメモを認(したた)めた老人と
こどもたち(幼児・児童・生徒等)と
がオーバーラップして見えたのです。

特に,自己の思いや感情を表現できない
(したくてもできない・しようとは思わない)
こどもたちの姿と二重写しになったのです
(このメモの主旨とは異なっているとは思いますが。)

 

万一,そのようなこどもたちを
「(大人の)言うことを聞かない子」とか
「反抗的な子」と思い込み,
それなりの冷たい対応をしてしまったら…。
当然,こどもたちは,
尚更のこと,心を閉じてしまうことでしょう。

 

当塾の塾長は,
29年間の教員生活の中で,常に,
「(自分=塾長が)一人ひとりの(児童)生徒たちを
自分だけに内化してしまった
「ものごとをみるフィルター」でみていないか?」

と気になって仕方がなかったと言います。

 

人というものは,
主観を廃し,客観的視座にいて物事を見,
判断したつもりでも,
それは所詮「つもり」なんだ。

 

ましてや,
そうした営みを恒常的にできる人は
少ないのではないのかなあ。

 

人は生を受けてから後,
種々の他者
(人だけではなく,自然・神仏などを含めた自己を取り巻く環境)
との関係の中で生きていく生き物だから,
その人が生きた過程の環境的な影響を
自動的に内化した自己のストーリーの中で生きてしまう

 

何もそれを否定するわけではないが,
だからこそ,
(間主観的拘束性による固定観念・既成概念を思考の台座とする)
自動的に内化した自分だけのストーリー
(ものごとをみるフィルター)を
〈相対化〉して物事をみないと,

つい,主観に陥ってしまう

 

それでは〈真実・真理・事実〉は
みえなくなってしまう
よね。

 

この呪縛から
自己を解放することはなかなか難しい。

 

教員だって,「人」なのだから,
この呪縛に搦め捕られているわけだけど,
その状態で児童生徒をみてしまうから,
往々にして
誤った「児童生徒理解」をしてしまっている。

 

そこに気づけば,
まだ「プロ」ならぬ「フロ」レベルなのだろうけど,
これが難しい。

 

でも,「教員」という仕事に就いたかぎりには
「教育のプロ」のはずであって,
少なくとも
自己が搦め捕られた呪縛から
自己を解放するよう
あがくのが当たり前だと思うんだよね。(塾長)

 

 

このおばあさんの「メモ」と
過去を懐かしむように
よく口にする塾長のつぶやきとを
重ね合わせながら,
私は改めて
「他者をみる〈チカラ〉」の重要性
について考えるのです。

 

 

 

【関連サイト等】

「目を開けて,私をもっとよく見て」(緋色の研究,パパもん)

[参考]『私は三年間老人だった 明日の自分のためにできること』(パット・ムー
    ア (著), 木村 治美 (翻訳),朝日出版社,2005.3.28)

 

「詩『もっと私をよく見て』」(住本小夜子,2010.12.19,アメーバブログ)

 

 

 

教師教育 他者をみる〈チカラ〉―その重要性について―

 

 

注:本Blogは,平成30年2月4日(日)にアメーバブログに投稿した「相手をみるチカラ」のリメイク版です。

 

 

(文責 副塾長)

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